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 来歴示す地名を残したい

3.11東日本大震災が起こる前の話になるが、陸前高田市の平野部には、不思議な地名がたくさんあった。「中川原」「奈々切」「砂畑」「長砂」「裏田」「古川」などである。広い水田域の中になぜこのような稲作にあまり関係しないような地名(字名)が存在したのだろうか。『陸前高田市史』には、「高田平野は、気仙川が暴れた結果できた河口デルタ(三角州)である」と出ている。すなわち、高田平野は誂石(あつらいし)付近を頂点とする扇状地状の地形を基本にして、気仙川河道の洪水時の首振り現象によってできた低平地だったというのである。このことを念頭に上記の地名を再度良く見ると、「なるほど…」と合点がゆく。なぜならば、河川の洪水や海岸の波浪の営力に関係すると思われる地名が分布しているからである(下図参照)。

『現在の高田平野(2010(平成22)国土地理院)』

それぞれの地名(字名)を考察すると概ね以下のとおりである。「中川原」は気仙川が狭窄部から平野部に出るあたりの左岸堤防付近に存在し、氾濫原の中に中州のような微高地があったことを示している。「奈々切」は国道340号のJR跨線橋南側に名づけられた地名で、気仙川の洪水によって何度も土手が破られたのを「七切(ななきれ)」と呼び、それが「奈々切(ななきり)」に転訛したものと考えられる。「砂畑」は氾濫原の中にできた自然堤防を表わしているのであろう。「長砂(ながすか)」の「すか」は砂浜を表わす言葉「須賀」であり、かつてこの辺りに長い海岸線があったことを物語っている。また「裏田」は、高田平野で最も低い場所であり、水の引きが悪い湿田状態の土地であった。古くは「浦田」と記されていたのではなかろうか。「古川沼」は昔「永沼(ながぬま)」と呼ばれていて、砂丘背後にできた湿地が現存しているものと推察される。

このように土地の来歴がわかる地名がまとまって存在するケースは極めて珍しい。今後の防災教育や地域史学習に大いに役立つ教材となり得るものである。しかし、現在、ここは盛土工事が完了していて、かつての面影がどこにも見出せない景観となってしまった。造成盛土の高さは8~11mにも及ぶので、地名や字名は完全に土中に埋もれてしまい、間もなく人々の記憶から消え去ってしまうことであろう。新しく盛土上にできる区画整理後の街に、今までの字名が住居表示名として採用されることは、地形改変の度合いが大きいことから、まず無いと見てよい。現在、市では新しい町名の検討を行っているようであるが、結果を見守りたい。

地名や字名はその地域や場所の歴史を表わすと共に、そこに生きて生活を営んできた人々の心の支えとなる一種の無形文化財である。何らかの手法でこれらの地名(字名)を後世に残し、末永く伝承したいものである。

『今から約100年前の高田平野(1913(大正3)陸地測量部)』

 

『概ね完成した防潮堤(2016年12月)』
出典:高田地区海岸災害復旧工事報告(鹿島建設HP)

 

『高田松原の全景(被災前)』

 

『高田松原の全景(被災後)』
出典:津浪被災前後の記録
(2012年8月/(社)東北建設境界/河北新報出版センター)

 

投稿: S・I